先日、98歳のご婦人の通院に付き添う機会があった。
初診であったため、
初診カードへの記入を代わりに行ったのだが、
生年月日を記入する欄に「大正・昭和・平成」と書かれていて困った。
その方は明治43年生まれなのだ。
明治。
日常生活でこの年号を使うことは極めて稀だ。
話は変わるが、
先日電車に乗った際、こんな光景を見た。
車内で女子高生と思われる人物がカップラーメンを食べている。
乗車率20パーセントくらいであり車内は空いているが、
カップラーメンを食べている。
京浜急行本線でだ。
新幹線や夜行列車ではない。
普通の電車内だ。
なぜそんな空間でカップラーメンなど食べられるのか。
さらに、
その人物はカップラーメンを食べ終えたのち、
カップを足下において電車を降りた。
電車内でそんな物を食べるのも異常だが、
ゴミをそのまま放置していくのも異常だ。
精神を病んでいるのだろうか。
いや、同じ格好の女子高生らしき三人組と話をしていた。
普通に高校生活を送っているはずだ。
昔から、「最近の若者は…」と言う文句は生き続けている。
この言葉をそのまま受け取ると、
人間はだんだんレベルが下がっているように受け取れる。
電車でラーメンを食べていた先の女子高生は、
アレで日常生活が送れているのだろうか。
本人は普通の生活をしているつもりなのだろうが、
すでに常識を大きく逸脱した生活を送っている。
高校生。
今の高校生はほとんど平成生まれだろう。
初めに登場した98歳の女性は、認知症である。
このため、ひとりで生活を送ることは出来ないし、
昨日何をしていたかを思い出すことも出来ないだろう。
しかし、人間としての常識はきちんと持っている。
先の女子高生は、認知症の方ですら身につけている常識が欠如している。
明治生まれの人間と、
平成生まれの人間。
たまたま近くにいたこの二人だけで比較することも無いだろうが、
たったの数十年であまりにもレベルが下がりすぎている。
いや、レベルが下がっているのは一部の人間だけかも知れない。
同じ年代でも、人間として大きな差が生じているのだろう。
所得や地位ではない。
信仰や学歴でもない。
人間としての教育が足りていない人間がいる。
昔に比べると
この部分での格差が大きく広がっているのではないだろうか。
いつからであろうか、
平成生まれの人間の親の世代からだろうか、
いや、更にひとつ上の世代からかもしれない。
人間が社会生活を送るために必要なモノ。
これを持たないまま成長する人間が多くなってきているように思う。
類は友を呼ぶ。
こんな言葉が示すように、
この格差の両端に存在するもの同士は交流をもたず、
近い位置にいるもの同士が集まることになる。
これでまた格差が開いていくのだ。
所得や地位ではない。
信仰や学歴でもない。
人間の精神の根本的な部分が異なるのだ。
何事も、作るより壊す方が簡単だ。
人間社会は何年間で壊れたのだろう。
立て直すには何年間必要なのだろう。
今まで日本を背負ってきた明治生まれの人間は、
ほとんどが死んでしまった。
今後の日本を担うであろう平成生まれの人間は、
半分が壊れているかもしれない。
人間はこの先どこへ向かうのだろう。
どこへ向かうにしても、人間社会はこの先大きな決断を迫られることだろう。
切るか、背負うか、操るか。
操る時代は終わった。
背負う時代は終わりが見え隠れしている。
切る時代は過去に何度かあった。
さて、人間社会は次にどんな手を打つだろう。